TSUNAMI

津波現場から

現場からのレポート


 今日は悲しい「インド洋大津波」があった日から3年目。私が現場で見たままを書いたものがありました。津波の怖さを再確認する意味でももう一度推敲して書き記します。書いた日は2004年12月27日とありますから、災害の翌日でした。

津波被害現場」
  12月26日、午前10時頃(日本時間)インドネシアスマトラ島の沖合を震源とする強い地震が発生し、大規模な津波がインド洋の周辺各国に到達した。震源スマトラ島の西方沖で、震源の深さは約10キロ、マグニチュード(M)9.0。
 ペナン北部のバツゥ・フェリンギがマレーシアで一番の被害者を生んだ。ここだけで12人を超す方の命が失われた。いまだに半島側から飛来した空軍のヘリと漁船が出て行方不明者の捜索をしている。痛ましく悲しい情報を書かなければならない。


 写真を中心に現場の混乱ぶりと日本人から見た感想を記録しておく。 
 バツゥ・フェリンギに津波(TSUNAMIが世界共通語らしい)が押し寄せたのは26日、日曜日の午後1時頃(日本時間)だった。現場はジョージタウンから車で20分くらい、さらに北へ進めばよく知られたラサ・サヤン・ホテルやムティアラ・ホテルなどの観光地に出る場所。多くの日本人が訪れるリゾート地である。
 悲劇の現場となった場所は、もともとたくさんのマレーシア人が訪れる場所である。海岸に面した道路の直下に浜辺が広がる。入り江になっていて景勝地としても知られている。バツゥは岩と言う意味。1mから10mを超える巨岩が無数にあり、海岸からかなりの沖合いまで点在している。今回の水難事故でこの地形が大きな被害を生む原因になってしまった。


 知り合いからランカウイの異常な情報が届いてバルコニーに出た途端、私は第一波を目撃した。海がいきなり数メートル隆起していた。入り江の岬を見ていると普段はそこまで来ないところまで数秒で水位が上がったのである。すでに異常事態を察知した。
 かなりの沖合いから白い波頭が整然と岸に向かっていた。軍隊が横一線でザッツザッツと進んでいる迫力があった。横幅は一本数百メートルはあっただろうか。およそだが約10mおきにきちんと隊列が組まれているように前進してくる。波の高さは50cmから1mくらいか、ゆっくりだが確実に進んでいる。まさに波状攻撃だった。私は息を呑んだ。


 ほどなくして絶叫が聞こえた。子供たちの声だった。考えてみればすべてが最悪のシナリオだった。ペナンは今、日本人の夏休みにあたる年度末の大型学校休暇だった。そこへ日曜日の午後、たくさんの家族連れがペナンの景勝地を訪れ、周囲は車を止めることさえできず大渋滞が発生していた。これがやがて救急車の行く手を阻む障害になるとは誰も考えていなかったのだろう。
 そして、地形だった。入り江は小さな湾を形成していた。1立法メートルの水は1トンである。津波は数億トンの海水が波状的に岸に押し寄せる。入り江はさらに絞り込まれて水かさが増える。
 津波が人を沖に連れ去る光景は実に恐ろしい。海の水が人間一人を飲み込むのは、例は悪いが鯨がプランクトンを吸い込むに等しい、驚異的な量の海水が一気に平和な海岸を襲った。 第一波のあと、浜辺に散らかった自分の荷物を取りに行った人たちが第二波、第三波によって海に引き込まれた。荷物を捨てて逃げれば助かった人もいたはずだった。
 私は部屋を出てすぐに海岸通りへ下りて行った。恐怖の現場は想像したのと異なり、パニックもなかった。数人のビーチボーイがけたたましく笛を吹いている。意外なほど人々は声を出さない。思うに、まだ何が起こったのかこの惨劇は何なのか掌握できていなかったため恐怖で声が出せなかったのだろう。
 また不幸なことに<地震>や<津波>に対する知識は薄いからではないだろうか。マレーシアには体感する大地震も、近年のそれに関した大被害もない。当然学校ではTSUNAMIの知識を教えてないはずだ。津波がなにものなのかは地震国日本とてどこまで教えているのか知らないがマレーシアでは皆無と言っても言い過ぎではないのだろう。


 すぐに現場を離れようとする車や人と、一緒に来た仲間や家族が戻らないため蒼白な顔で海を見つめる人たちが、声を発せずただおろおろと道路際に溢れていた。亡くなった方がシートにくるまれて次々に上がってきた。救急車はたくさんの車に進路をふさがれ現場にたどり着けない。けたたましいサイレンの音が響く。ビーチボーイたちが海水パンツ姿で笛を吹き交通整理をしてやっと到着した。そのあとにもそのあとにも救急車が続く。一体何台来るのだろう。消防自動車も数台確認できた。
 一台が停まった。生存者の中から重傷者を選んでいるようだった。軽傷者で自ら遠慮している方を見た。乗れる人数は限られている。亡くなった方は手が出せないのか歩道に放置してある。
 全員が不意を打たれ、知識に薄い出来事を何が起きたのかと怖れ慄(おのの)いていた。泣いてる方が数人いたがどのかたも声を出さないことに違和感を感じていた。


 私がガードレール側(浜側)を歩いていると、いきなり若い女性が私に声を掛けてきた。薄い青色のTシャツを着ている。シャツは胸から下が濡れていた。余談だがムスリムの方はシャツを着たりジーンズなどの衣類をつけたまま泳ぐ。このことも津波の呪縛から避難しがたい状況に追いやったことと関係している。すべてが最悪のシナリオを作ることに手を貸してしまったのだ。
 彼女はあごに新しい傷があり血が流れている。めがねの弦がゆがみ、額にも傷があった。
「お願いがあるの」声もやっと出すほどの小さい声で指先もすこし震えていた。「私のバッグがこの下の海小屋にあるの。部屋の鍵も車の鍵も入っている。でも怖くて下に降りられない」震える指で小屋を指差した。津波が与えたショックが彼女に声さえ出させなかった。それがいかなるものかが伝わってきた。右の二の腕は擦り剥いたようで広く赤くなっていた。
 小屋に行くには15mほど戻って崖を下り下に出なければならない。そこは危険な場所だった。近くにレスキューの人が二人いることに気づいた。私は大声でそのことを告げた。彼らはすぐに走った。結局見つけることはできなかった。私は彼女に謝ってそこを離れた。
 道路は渋滞に拍車がかかっていた。救急車はサイレンを鳴らすのさえやめてしまった。ここの海岸通りは対面通行で2車線しかない。消防車から降りた数人が重そうな制服のままロープを張り始めた。遺体を安置するための場所を確保するのだろう。すでに10人近くが亡くなったようだった。
 何かの役に立ちたかったがそれも叶わなかった。やるせない気持ちで現場を離れた。この悲劇が今後に生かされることを必死で祈って勾配のきつい坂道を登っていた。足取りは重く、そして勾配の何倍も心はスティープだった。


追記(2007/12/27)
 最終的にこの不幸なインド洋大津波は全世界で23万人を超える死者・行方不明者を出した。タイだけでも在留邦人29人の尊い命が奪われた。二度とこんなことが起きないことを祈り、同時に悲劇の記憶の証しを忘れずにいたい。
 日本人だけではなく全世界の災害に逢われた犠牲者が安らかに眠れるようお祈り申し上げます。