大手新聞研究会 〜 特殊指定の罪

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 ノーベル文学賞候補の村上春樹さんは、新聞業界のあり方に強い疑問を投げかけているひとりである。著書「村上朝日堂はこうして鍛え上げられた」の中で、新聞の再販問題―特殊指定はおかしいと考え、テーマに取り上げようとした時に某新聞社の方から「それには触れないほうがいい」と忠告された話を書いている。
 この国では職業作家が新聞という、相撲界より古い体質であっても強大な力を秘めた業界を批判するということは、取りも直さずその世界から抹殺に近いことを意味すると言っていいかもしれない。
 村上春樹さんはまっすぐに有態の事実を書く方で、それほど古い考え方の業界ということを知らなかったので単にそれを書こうとしただけだったようだ。結果はその忠告を受け入れて深くは書かなかった。彼が海外で一定の高い評価を受けながら、国内で今一つなのは新聞も読まないし、新聞業界のことをあまり良く書かないことが裏にあるのではないかという説もあるが同感である。


 日本には新聞を批判できる、新聞以上力のあるメディアはない。だからペンの力(暴力的な記事や誤報も含め)を存分に発揮される。とても太刀打ちできるものではなく、いくら正しい意見を言っても、それが新聞社の経営に不都合な意見なら踏みつぶされるのが目に見えている。長い間に新聞が流布することが「正なり」と、読むほうが習慣づけられ飼いならされてしまったため、新聞社のやりたい放題になっているのが現状だろう。大手新聞社はNIPPONのお山の大将である。


 今日のゼミの結論から先に書こう。新聞は①発行する新聞社、②新聞購読者、③その中間を支える新聞販売店三者で成り立っている。その中で、新聞社がもっとも権力を持ち、販売店と読者はその不利益を分け合った形になっている。つまり、読者は公平ではなく、勝手に決められたどうにもならない購読料を払って読まねばならない。このデフレの時代に新聞代だけは全く競争などあり得ないという、まさに本来のあり方が逆になっているのだ。

 そんな理不尽が通る最大級の要因がこの<特殊指定>で保護されているということに尽きるのである。わかりやすく言うと、テレビドラマの水戸黄門さんが持っている「印籠」、あれが特殊指定に該当する。時代劇の世界の話なのに、新聞に限っては現代でも一般人たちは印籠にひれ伏しているようなもの、あんな物もういらない。


 その原因はいろいろある、新聞における長い歴史の悪弊の放置でこんな形骸化されたことが、堂々と罷り通ってしまっていることもある。船にこびりついた貝殻のようなものだ。漫然とやりたい放題にさせて何も言わなかった購読者にも遠因の一端はあるかもしれない。確かに古い昔はインターネットという素晴らしい情報源もなかったし、公平な記事を書いていた当時は一定の報道としての役割を持っていたので、あたかも新聞代を公共料金的に考えている人も多かった。NHKと新聞代は健康保険料の延長と思った人もいただろう。しかし、現代では主義主張の偏った単なる私企業である新聞社の横暴を許すことはできなくなった。時代が変わったのだ。


 さて、ここでその理由を確かめるため、もう一度再販制度の特殊指定という、あまり一般には馴染みのない法律を再確認する。
◆特殊指定=独占禁止法に基づいた制度で、新聞の場合、新聞社や新聞販売店が、地域や読者によって異なる価格をつけたり、定価を割り引いたりすることを禁止している。
 (この特殊指定商品は過去に化粧品や本などあったが、今の時代新聞くらいになってしまった。しかも特殊指定を決めるのは公正取引委員会で、一般の購読者は直接介入することはできない。昨年の見直し会議では、公正取引委員長が強く新聞を特殊指定から外すように働きかけたが、超党派の議員さんたちがこれを一蹴した。個人的に慣れ合いではないのかと疑っている。ついでに日本新聞販売協会が多額の政治献金をしていることも付け加えておこう)


 何度も触れているように、新聞購読料は発行本社が決めた値段以外で売ってはいけないという法律だ。そのため、各販売店は俗に<縄張り>といわれるテリトリーを守って、決して隣接する地域に割り込むことはできない。明らかに消費者に不満がある。折り込みチラシさえ選べない、すぐ近くの売り出しも入らないことが往々にある。
 仮に販売店間の縄張りも外し値段の決めがなければもっと安く届けてくれるかもしれない。新聞社は潤沢な利益を上げるためこうした定価や区域の縛りが必要になる。しかし、法的な裏打ちがないと価格を裏で統一する「カルテル」となる。そのために必要なのが「再販制度の特殊指定」という国のお墨付きを取得しておかなければならないという意味なのだ。


 特殊指定という過保護な状況に置かれているから勝手に購読料が裏で決められ安定した儲けが出るように、購読料の高値安定型を目論むのは理の当然である。100年を経て日経新聞を除いて三社は一円単位まで値段が同じ状況にある。国会議事堂の屋根に隕石が命中するより奇跡的な確率だ。
 新聞社はお互いに仲良くし、合法的な特殊指定を受けて利益を確保してきたので、逆に言うとそれを支えつつ割りを食わされたのが購読者ということになる。消費者が不利にならないようもっと自由に自分で選んだ販売店から、リーズナブルな金額で購読したいという方もいるのではないだろうか。ましてやその公正な取引といえない制度をお上(政治家)と結託して国民に押し付けているとしたらとんでもないことである。
 そもそも、特殊指定の堅持は読者に均一なサービスを施すためと言っているが、ビール券やギフト券や何やら雑貨が乱舞していてはどこが均一と言えるのか。一か月の購読料はたくさん物をもらっている人とそうでない人では大きく差異があり、すでに均一のサービスなんて崩壊している。つまり、特殊指定に合致した合法的な状況ではないのだ。


 一番困るのはそれを押し付けられて、新聞社の軋轢と横暴の中で<押し紙>というノルマを背負わされて苦しむ販売店である。その圧政ともいえる新聞社の傍若無人を許しているのが<再販制度の特殊指定>であることがこの項の結論だ。まったく新聞社の思うつぼである。新聞社から見て、読者は色分けされ販売店は苦しい状況にある。そのこともいくつかの裁判例を交え、徐々に解き明かしていく。