僕、あるいは僕たちの平和が危険だった過去  利根川純一

予期せぬ思い出


 
 2024年、たしか暖かい10月のある日だった。庭では僕が大切に世話している鶏(ニワトリ)のベンとミヤコ、それにケンとガスリンが仲良く遊んでいた。僕はなんとなく柔らかい日差しの中で彼らをぼんやり眺めて過ごしていた。ベンはアオエリヤケイの亜種の流れを汲み、光沢のある茶と黒の羽根は歩くたびにふさふさと揺れる。誰よりも堂々として立派な姿だがもうトシでいつも静かだ。しかし、どんなに年老いても敵が近づけば体を張って仲間を守るし、あの夜明けを告げる大きな声はいまでも雄鶏としての「威厳」と「勇気」と「誇り」に満ち溢れている。僕はあまり良いことがなかった日も、翌朝ベンの時を告げる鳴き声を聞いた瞬間に武者震いをする。
 白色レグホーンのケンとガスリンはあまり仲が良くない。ケンは体が小さいのに向こうっ気が強いからだ。唯一メスでロードアイランドレッド系のミヤコはじつによく卵を産む、僕はミヤコが産んだ、まだ温かい卵を目玉焼きにしていただきながらいつも感謝している。このユビキタスの世界にいまどきニワトリを飼っているのはこの町で僕くらいだった。鶏は7年前の世界的な鳥インフルエンザの流行で激減し、絶滅危惧種に指定され自治体から助成金が出ている。20世紀を生きた人類の間違いに気づき、遅きに失したものの古き良きものを大切にするコンセプトは世界の常識になっていた。
 夕方になり、少し冷えてきたので僕は4羽を餌で小屋に誘い戸を閉め、ロックのレバーをカチャツと引っ張ったその時だった。ドスンという大きな音がして何かが庭に落ちた。一週間前も生まれて間もない豚の子供が落ちてきた。豚の子供はかすり傷一つなかったので気象庁のFOMC(落下物管理センター)に預けた。15キロ離れた隣の町にもどこかの寺の賽銭箱が降ってきたという記事があった、どうも最近の空模様はおかしい。ここ30年で5度も上昇した温暖化のせいだろうか。
 今度はなにが落ちたのかとそっと見に行ったらなんと古ぼけたスノビズムだった。ひっくり返して裏を見ると<Made in USA>とタグが張ってあった。1980年代に大量生産されて21世紀になってからス−ッとどこかに消えたあれだなと僕は思った。時間的に遅かったので気象庁のFOMCに電話するのは明日にした。今から電話して夜中に役人が来られても困るからだった。僕はスノビズムを金属製のブラックボックスに納め倉庫の棚の奥にしまって家の中に入った。
 その夜、と言っても深夜だった。寝室に行こうとしていた僕にマルチポップ端末が来客を知らせる。この端末はどこの家庭にも普及しているアクティブセンサーで各地域ごとにネットワーク化されていた。端末は僕の家の玄関先でライトを当てられた一人の男の画像を映し出していた。男はそこに立っていてやけに背が高く、頭が禿げていて白い鼻髭を蓄えた赤い顔の外国人だった。僕は少々ウオトカを飲み過ぎて相当酔っていたが、急に緊張して端末を操作した。ディスプレーに訪問者の意思が書きだされた。
 「私はアメリカの連邦文化局から特殊任務で派遣され、世界中を走り回っているスコット・ワイブリングと言います。単刀直入に申します。今日、いえ、正確に言うと昨日、あなたの庭に落ちたスノビズムを渡してほしい。あれは世界にみっつしかないもので、すべて揃わないと過去の歴史を歪曲させる力があります。すでにスゥエーデンとイエメンで当局の人間が二つを回収し残るはあなたの所にあるものだけです。簡単にいきさつを説明します。先月、文化局の保管センターの金庫から盗み出され必死で探していました。ところが最近ある国の衛星に隠されていることが判明したんです。それも信じられないことですが今日衛星に事故があり誤って投下されたのです。以上ですが、おわかりいただけたら速やかにお返しいただきたい」
 男の言い方には有無を言わせないなにかパワーを感じ、僕は少し腰を引いた。事情は掴めたがこんな夜中に押しかけて来ていきなり“それを返せ”なんて…、不躾ばかりか理不尽で乱暴じゃないか、、、その気持ちはすぐ顔の赤い鼻髭の大男に通じたようだった。大男は豹変し「私には時間がないんです。もし承諾いただけないなら、、」とひと呼吸おき「気の毒だがベンとミヤコ、それにケンとガスリンはフライドチキンにしてアリゾナウルフの餌にしてしまうが許容できますか」。
 僕は少しあわてた、なぜ僕の大事な4羽の名前を知っているんだろう。僕はそれだけは困ると思って硬直してしまった。僕は彼らを愛しているしなにより僕の生きがいにも似ている。ミヤコの産みたての卵も食べられなくなる、もう承服する以外手立てはないと思って観念した。気象庁のFOMCだって事情を話せば情状酌量してもらえるだろう。僕はパジャマを脱いで身支度をした。そして外へ出て倉庫からスノビズムを引っ張り出し男に渡した。初めて近距離で見た大男はその頃の秋空のように澄んだ青い眼をしていた。その青い目の大男は僕に何も言わず、なにも僕に渡さず、僕の顔をチラと見ただけでスノビズムを手から奪い取るようにして去っていった、ものすごい速度で。
 あれからちょうど三年が経った。僕は缶ビールを飲みながら早いもんだなとあの日のことを思い出している。ベンとミヤコ、それにケンとガスリンは今も僕の庭で僕の目の前で元気に遊んでいる。ぼんやり彼らを眺める僕にとっては掛けがえのない平和な時間だ。でも無心で遊んでいるベンとミヤコ、それにケンとガスリンは何も知らない。