「あいだけ」売り   利根川 純一

あいだけ売り


 小林源三、56歳、会社員。会社は「UHS(ユニバース・ホーム・サポート)」という小さい会社で、社名とおよそ繫がらない「あいだけ」の訪問販売をしている。「あいだけ」はどこの家庭にもある必需品で、これがなくなると家事に大きな支障をきたす代物だ。
 小林源三は自分が生まれた福島の大学を出て地元の農協(当時)に勤めた。そこまでは極めて順調だったが、10年目に魔が差しお客の口座からわずかな金を懐に入れてからすべてが狂う。その農協には叔父がいて温情で依願退職になったが、二人の兄も実家にいたためすぐに家を出た。田舎では近所の目がそこで暮らしていくことを許してくれなかった。
 以後数え切れないほどの職業を経験した。今の会社は入社してもうすぐ一年になるが、この年でこれだけ稼げるところもないので何となく頑張っている。大きい声では言えないがヤバイ会社だ。最近、源三はこの会社を辞めようかどうしようか悩んでいる。そもそも彼は少し気が弱い性格なのだ。
 ついでに全部打ち明けると、小林源三はニホンザルである。そのことを彼は自覚している。そして彼は人間が一人残らず動物であることも知っている。神は母親の胎内にいる間に特殊な人間型の着ぐるみを与え、生まれる瞬間に後頭部にあるチャンネルを『人間』にセットして生まれてくる。生まれたばかりの赤ちゃんが「オギャーーッ」と声を立てるのは、神がチャンネルセットするのに後頭部を叩くためで、そのショックで体外へ出た赤ちゃんは泣く、いや、本当は鳴く。すると神は<よし>と小声で言う。子供の出産に立ち会う機会があったら、その時耳を澄ますといい、その声がかすかに聞こえるはずだ。
 では、どんな動物かというとそれは世界中に65億種類に亘る壮大なものである。ひとりとして同じものは存在しない。たとえばコブハクチョウであったり、ヒトコブラクダだったりする。他にもステラーカイギュウ、ゾウガメ、ブチハイエナ、ショリョウバッタという具合で、ホオアカオナガゴシキドリ、マルミミゾウ、ウバザメなどもある。すべては神に人間として同じような格好をさせられているため、相互間で気づくことはありえないから社会として成立する。住む地域ごとに異なった名前を付けられ異なった言語を話す。それぞれの動物(個体)には固有の性格と寿命が与えられ、それぞれの人生を歩みやがて消滅していく。
 小林源三は生まれる瞬間、神の手元が狂いチャンネル替えに失敗したまま中途半端に生まれてしまった。だから自分がニホンザルだという真の己(おのれ)を自覚してしまったのだ。そのかわり他人もすべて何の動物かが見えるという特殊な才能も持ちあわせている。このことは時としていままでの源三の人生に悪い方に作用していた。農協で客の金をくすねたのも単純なサル知恵だった。でもこの能力は「あいだけ屋」のときは有効だと思っている。相手の性格が読めるからだ。
 子供の時も成長してからもそのことを誰にも話したことはない。そんなことを言うときっと病院に入れられてしまうと思っているからだった。しかし時々「ウキ----ッ」と声が出たり、感情的になるとカァーーと顔が赤くなる、これにはいささか閉口している。

 源三は今日も軽自動車に乗り込み町に「あいだけ」を売りに行く。見知らぬ街の住宅地は同じような建物が軒を並べていた。秋の青空はあくまでも高く、コバルトブルーの水彩絵の具を水に溶かしたような色をして、甍(いらか)の波の輪郭を目に沁みるほど際立たせていた。源三はハンドルの右手にあるスピーカーのスイッチを入れ、アド・テープをカセットに入れた。
〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜、スピーカーから会社のウグイス嬢、あきちゃんの声が流れる。
〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜二本でたった千円、二本でたったの千円でぇ〜す〜〜 源三はあきちゃんが好きだ、やさしい性格だしとにかく年長者に配慮がある、きっといいヨメはんになりいいオバはんになるンだろうな、などと想像していたら早速声がかかった。
「あいだけ屋さーーーん!」おっと、カモが掛かったかな。フム、人間の格好しているがあれはヒマラヤウサギだな。源三は即見極めた。
「は〜い、毎度」と車を止めて満面に笑みを浮かべて頭を下げる。会社の研修マニュアル通りだ。
「あいだけ屋さん、すみませんねぇ、そろそろ取り替えようかと思って…」
「はいはい、どうも、それでは早速おうちを見せて下さいね、奥さん。われわれは専門家ですから拝見すれば一目でサイズがわかります、どうぞ安心してくださいね、ははは、」
「ささ、どうぞ、ちょっと散らかってますが」
 源三は少し時間をかけて覗いただけですっかり様子がわかったように振舞い、マニュアル通りこう切り出す。
「奥さん、拝見させていただきました。ウ〜ン、正直申しますと安い標準型よりお宅にはワンランク上のこちらを推奨しますね。今安い方を取り換えても一年、いや、半年も持たないかもしれませんから、こっちがお薦めだなぁ」と源三は最初の「あいだけ」より明らかに光沢も品物も良さそうな別物をきれいな布で磨くようにしながら言った。
「あらそうなの、でもお高いんでしょ、ソチラ」とヒマラヤウサギの奥さんは心理がぐらついていることを表しながら目をその別物に向けて言った。源三はウサギが従順なことを知りつくしていた。
「198(いちきゅっぱ)」と源三は言った。「たしかに、ちょっと品物が違うわねぇ、やっぱり半年じゃ困るからそれでお願いしようかしら」とヒマラヤウサギは言った。
 源三は「ではよろしいですか」と念を押してニヤッと口元に笑みを浮かべた。この確認作業はマニュアルにアンダーライン付きで記述してあった。売買の契約成立は最重要課題である。そして間髪をいれず早速あいだけの切断作業に入った。二本揃えるのに作業は三分もかからなかった。
「切れましたよ奥さん」と源三が言った。
「あらすみませんこと、じゃこれでお釣りいただけます?」とヒマラヤウサギの奥さんは二千円を差し出した。源三は笑って「いやいや、奥さんジョーダンでしょ」と言った。
 ウサギの奥さんは少し考えていたが「あら、失礼、一本が1,980円なんですか、まぁゴメンナサイね」と言いながら四千円を差し出した。源三はここがサビの部分であることを散々習得していた。
「あのねぇ奥さん、オイラは道楽でコレやってるんじゃねぇんだよ。馬鹿にするのもたいがいにしろってんだ。いちきゅっぱっといえば19,800円、二本で39,600円に決まっとろうがーーーぁ!品物を見ろよ、モノを見ればわかるだろー、あんたに注文されたからほら、この通り切っちまったじゃないか、もう売り物にはなんねえんだよこれは」
 源三はマニュアル通り最後のところに声を集中して怒鳴りあげた。それまでは丁寧に話し、一気に豹変した方が効果的だとも書いてあった。内心、今日はよくセリフ回しが決まったなと思った。ヒマラヤウサギの奥さんは蒼白な顔になった。そして気迫に押され震える手で4万円を渡した。そしてお釣りも受け取らず、二本のあいだけを抱え涙を浮かべながら家の中に消えた。

 それから3時間が経ち源三は隣の町に着いた。源三は車の中で落ち込んでいた。二番目の客に仕掛けがうまく決まらなかったからである。相手が悪かった、二番目の奥さんはしっかり年を経たアミメニシキヘビだった、それもコテコテの関西弁で。
ピッタリ決めた脅しの部分で相手は驚くどころか大逆襲を仕掛けてきた。
「あんたなぁ、ええ加減にしいや、そっちが二本でたったの千円ゆうたやないの?それでこっちがなんでその二十倍もすんねんな。ええか、これは詐欺やで、ホンマ、ふざけたこと言うてるとこっちにも考えがあるよってに!アンタ、2,000円上げるから素直にこれ持って帰らないと出るとこ出るでぇ!!」
 蛇に睨まれた蛙になった源三は「まぁ仕方ないわ、覚えとけよ」と捨て台詞を残して去るしかなかった。もともとその辺のホームセンターから一本1,500円で買った品物だがニシキヘビに噛まれて足が出てしまった。最初からどうも相手が悪いと思ったが仕掛けなけりゃよかったと後悔した。やはり源三の気の弱さも手伝ってしまったようだった。

 モティベーションが下がった源三は車を止めて街道筋のファミリーレストランに入ってコーヒーを頼んだ。平日の午後で客の数は数えるほどだった。
 源三はコーヒーが来るまで新聞を読んでいた。紙面のどこにもプロスペクティブな記事はなく、源三は気分的にますます沈んでいった。彼はこんな仕事に就いてはいても、本来あるべき世界の平和や環境の保全を願っていた。
 コーヒーが目の前に置かれ、いつものようにミルクも砂糖も入れずに口に運ぶ。今の世界は確実にゼロサム社会化している。コーヒー豆を出荷している貧しい南に対し、北の先進諸国は膨大な資力で南の資源を安く買い叩き、豊かな生活を営んでいる。自分のしていることはまるっきりそっくりなんじゃないか、あるいはもっと法外なことだ。そう思うとすべてがエンプティに感じてきた。何てまずいコーヒーなんだろう。外に出ると初秋の風が肌を撫でた。透明のシャワーを浴びたようで少しだけ心が洗われるようだった。ふと故郷の山々が脳裏をかすめた、一瞬懐かしさがこみ上げた。

〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜あいやぁ〜、あいだけぇ〜二本で千円、二本でたったの千円でぇ〜す〜〜、源三は客を見逃すまいと八方に気を配って小一時間郊外の住宅地をウロウロしていた。百日紅が実に美しい家の角を曲がったところでご婦人が手を挙げているのを発見した。源三はスピードを上げてその家に軽自動車を横付けしてスピーカーのスイッチを切った。
 三番目の客はすこし若い奥さんで彼女はウオーターバックだった。彼女は自宅の玄関から数段の階段を素早くかけ降りて源三の目の前にスラリと立った。大きい目が物をしっかり見つめるような感じと、運動神経が良さそうな印象があった。背はどちらかというと高いほうでスタイルの良いちょっとイイ女だった。真っ白なキュロットスカートと、肩と袖が薄いピンクでほかが白のラグラン3/4スリーブTシャツが似合っていた。源三は彼女のTシャツの胸に小さく書いてある『EASY』という文字をチラッと見ながら心の中で「チッ」と舌打ちした。あまり怒鳴りたくないタイプだったが仕方なかろう、こっちはプロだ、これを仕上げて会社に戻ろうと源三は気を引き締めた。
 話は予定通り順調に進んだ。
「奥さん、われわれプロに言わせるとお宅にはこちらのワンランク上がお似合いなんですね、なぜかというと耐久的な問題もあります。お宅にはこっちがお薦めだなぁ、値段も今日までならキャンペーンやってて198(いちきゅっぱ)の特別価格だし…」と源三は光る方の上等な品物を見せた。ウオーターバックの奥さんはかなり長いこと考えていたが「いいわ、そちらをいただきます」と言った。源三は198(いちきゅっぱ)の質問の答えを用意していたが訊かれなかったのでちょっと拍子抜けだった。
 源三は相手の気が変わらないうちに「あいだけ」の切断作業に入った。二本はすぐに揃った。
 ウオーターバックの奥さんは、お世話さまですと言いながら予想通り二千円を差し出した。源三は臍下丹田に力を込めてサビの部分に入った。しかし肝心なところで噛んでしまった、おまけに闊舌が良くない。いままでも最初にどうも駄目だと思うと失敗することが多かった。あるいは源三の気の弱さが出たのかもしれないし、相手にしっかり見つめられて怯んだのかもしれない。源三の顔はもう真っ赤になっていた。
「あのねぇ奥さん、オ、オイラは道楽でこんな仕事ヤッテるんじゃないんだよね。馬鹿にしてもらっちゃー困るんだよ、これとこれのモノを見ればわかるだろー、いちきゅっぱっといえば19,800円、二、二本で39,600円に決まっとろうがーーーぁ!」と声を張り上げた時、あろうことかそのウオーターバックは顔色一つ変えずポケットから携帯電話を取り出したのだ。そしていきなり110番、それもきわめて冷静に。
 目の前で電話されて源三は焦った。いや焦ったなんてもんじゃなかった。こんなことは経験したことがないしマニュアルにも書いてなかった。ウオーターバックは電話を耳に当てながら時折源三の様子をチラチラ見ている。どう対応するか考える余裕はなかった。できることは一秒でも早くここから逃げ出すことのみ。源三はあのドーベルマンやシェパードが群れをなして追いかけてくる光景を想像して身震いした。犬は生まれつき苦手だった。
 源三は咄嗟に「ウキーーッ」と叫んで軽自動車の運転席に飛び乗り、エンジンをかけるとものすごい勢いで走り去った。飛び乗る時、思い切り右足をドアの角にぶつけたが痛みを感じる暇はなかった。源三は早く10メートルでも遠くに行かなければということ以外何も考えなかった。すっかりあわてていて、さっき切った「あいだけ」二本も置き去りにしたどころか、自分の財布を現場に落としてきたことなんかまったく意識になかった。
 源三はこんなこっぴどい目に遭うなんてもう懲り懲りだと心から悟った。そして軽自動車のアクセルを思い切り踏みながら、もう会社には戻らずこのまま故郷の山に帰ろうと決心していた。そうだ、クレジットカードもイチローのサインボールも大事に使っていたロックステッドのナイフも愛用のジェームズ・ロックの帽子も大切な釣り竿も会社のあきちゃんも、、、、何もかも捨てて…、そう決めるとなぜか胸がときめいた、長い間の呪縛から解き放たれたように。
 運転席の上にスピーカーをつけ、数本の「あいだけ」を積んだ奇妙な軽自動車はひたすら北へ向かった。「あいだけ」の先っちょの白い小さな布の旗がバタバタ旗めいていた。街道の両側にはススキが風に靡き、まるでマラソン選手を応援する群衆のようにどこまでも続いていた。