館山一子の歌碑

館山一子の歌碑

明治大正昭和を力強く生きた一人の歌人に触れた日

 散歩の途中に真言宗の観音寺という寺がある。今日、境内の一隅に石碑があるのを発見した。散歩コースはいくつかあるがこの観音寺にはいままで数回立ち寄っていて、雰囲気の良い境内もなんとなく眺め一休みして帰宅していたが、この石碑にはついぞ気がつかなかった。自分の注意力の甘さに苦笑した。
 石碑の傍らに郷土短歌会が立てた小さな看板が添えられ「歌碑のうた・歌人 館山一子」と書かれていた。
 それによると館山一子(たてやまかずこ)、本名日暮いち。明治29年生まれ、窪田空穂に師事し今から60年ほど前の昭和22年に郷里<東葛飾郡土村逆井>に戻り、短歌雑誌「郷土」を立ち上げた。自ら主宰となりつつ後進を育て一生を短歌に捧げたひとらしい。
 家に帰って調べたところ、昭和3年に結婚や離婚を経験し、当時一種の流行だったプロレタリア運動に身を投じている。「プロレタリア」なんて言葉自体懐かしい、もう死語になっちゃったんじゃないかな。そしてその後はプロレタリア歌人同盟「新風十人」と形を変える。そこで彼女の作品が評価されたため人生の行方が定まったようだ。蛇足の上に確かではない話だが本名の「日暮」の読み方は「ひぐらし」さんじゃないかなと思う。この近所にはそういうお宅がたくさんあるから。

 彼女の作品の中には戦争中なのに『幾片の白骨と化して戻り来し骨甕を人ら捧げ来たるも』などという際どいものが多い。人生観に激しい側面が感じられる。個人的には歌に限らず広い意味での芸術の中にあまり思想的なものが色濃いと好きになれない。ピカソは好きだがゲルニカはどうもという感じかな。トルストイなどはその辺キチンと仕分けされていて素晴らしいと思う。

 この石碑は彼女の門弟たちが昭和51年---彼女の死後9年目---ここ観音寺の境内に建立したらしく、歌碑には一篇の歌が刻まれている。

  国境をはるかに越えて迫り来る波あり春の岸辺を洗ふ

 のちに本人が「敗戦後どっと押し寄せてきた米・ソ等の海外思想に材をとる」と語ったという。いよいよ戦争も終り、新しい考え方や文化が日本を変えるんだと、明るい将来を希望に満ちてわくわくしていたのかもしれない。
 そのほかにも館山一子の歌は力を感じるものが多い。

山村の小さきわら家にこもりゐて背のびするわれか時の流れに
絶端に支柱なく生きてつひに墜つ地上のかかる法則の身に及ぶとき

 あの時代にプロレタリア思想を持って行きぬいた方だ、それなりに充実していたのかもしれない。地元の小学校の校歌は彼女の作詞だという話だ。日暮家の墓所はここにあり、71歳で永眠し今は静かに眠っている。
 余談だが石碑脇の立て看板には誕生日が明治29年3月21日と書かれているが、別の資料には2月28日とある。昔は子供が生まれてもずいぶん遅れて出生届を出したから、案外こちらが正しいのかもしれない。実に奇遇だが2月28日と言えば今日ということになる。