空輸された郷愁

リハーサル中のバンド



 この季節、日本では秋刀魚が実においしい。昨夜も焼酎のお湯割りの友に箸を運んでいたら、ペナン島の思い出が鮮明に蘇った。


 -------------  ある日のことだった、私たち夫婦は高速道路を北に向かっていた。二人はいつもより会話が少なかった。その原因は『秋刀魚』だった。

 向かう先はスンガイペタニのホテル・パーク・アベニュー。1階にある日本料理店のママさんから電話で、秋刀魚が空輸で入ってくるわよと言われてじっとしている訳にいかなかった。干物ならジョージタウンのスーパーでいくらでも手に入る。久しぶりに旬の日本の味覚を食したかった。
 あの焼きたて秋刀魚のジュウジュウいう音、栗色に程よく焼けた皮、醤油がサッと沁みていくあの大根おろし…、そればかりが二人の脳裏を行ったり来たり。さらには最初のひと箸があの独特の香りを伴って口に飛び込んでくる舌触りまでリアルに再現されていた。そんなイメージに支配されていた二人に会話は浮かばなかったのだ。


 さてようやく到着、ロビーに入った途端「おや?」、なにやら特設ステージが設(しつら)えられ男性カルテットが軽快な音楽を流している、でも雰囲気はリハーサル。う〜ん、それにしてもなんて心地よい生演奏だ。
 私たちは思わず近くのソファに座り込んだ

 落ち着いて観察すると周囲にスタッフが男女8人ほど、機材を抱えて忙しそうに動き回っている、慌(あわ)ただしい雰囲気が充満している。ステージ下にはやや年配で体のドーンとデカイ中国系かな、ディレクターらしき人が、ドカッとイスに腰掛けてなにやら大声で指示している。
 寄り添うように座っていた女性はアシスタントさんか、私は彼女に撮影の許可を求め、ついでに質問した。
 「イベントの準備ですか?」
 「はい、今週末に州知事を囲んでパーティがあります」
 「なるほど」と話していると巨体のディレクターと目が合った。頭髪はほとんどなく目つきが老いた鷹のようで異様に鋭い。一瞬ドキッとした。
 
 「日本人?」彼は私に話しかけた。
 「そうです」と私が答える。
 それだけ話すとすぐ彼はステージのメンバーに何か叫んだ。演奏はコンポのポーズボタンを押したようにピタッと一時中断され、指示を聞いてまた再開する。私たちは再び座ってプロたちの演奏に耳を傾けていた。聞けばタイ人とインドネシア人混成の結構有名なグループだと言う。私はイベント当日は衣装をビシッと決め、ライトアップされて唄うんだろうななどと勝手に想像していた。

  
 何曲かリハーサルが進んだ。すると巨体ディレクターがこちらをチラッと見てから彼らに何か言った。
 次の瞬間私たちは本当にビックリした。なんと流れてきたのはあの『昴(すばる)』、日本の曲だった。演奏は勿論すばらしかったが彼らの日本語も実に流暢だった。いきなりだったので感激するより驚愕のほうが勝っていた。
 日本語の曲はまだ続いた。二曲目は『心の友』という曲だった。私は初めて聞いた曲だったが歌詞のすばらしさに感動した。

 感動は3曲続いた。
 最後は『椰子の実』だった。


 〜 実をとりて 胸にあつれば
  新なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
 
     海の日の 沈むを見れば
       激(たぎ)り落つ   異郷の涙
  
  思いやる 八重の汐々(しおじお)
     いずれの日にか 国に帰らん


 この詩は柳田國男が大学生の頃、伊良湖を訪れた時の体験を島崎藤村に語ったのを元に書かれたことは知っていた。
 しかし、ここはスンガイペタニ、まさに異郷の地でしかもエトランゼが日本の国民歌謡を唄ってくれている。ごく自然に自分を椰子の実に准(なぞら)えてしまう。胸が熱くなった。

 私たちは外見とは異なり実は心優しかった巨体ディレクターの手を硬く握った。そしてステージ上のメンバーたちに丁重な礼を述べてその場を去った。


 その経緯(いきさつ)をまったく知らない日本食レストランのママさんが我々を迎えてくれた。
 「あら、いらっしゃい、お待ちしてたのよ」我々も笑顔で応じ案内された席に着いた。昼の暑さを忘れさせるような室内の空調が涼やかな風を送っていた。レストランを取り囲む大きなガラスの外にはちょっとしたスペースがあり、泊まり客が思い思いに過ごしている。


 焼き立てで出てきた秋刀魚をふたりでしみじみいただいた。しかしなぜかこの日の秋刀魚はいつも以上にほろ苦く感じた。さっきの演奏がわれわれの心のひだに沁み込んでいたのだろう。

 <あ〜、秋刀魚、さんま、
          サンマ苦いかしょっぱいか…>