近藤勇 ---- 最後の陣営跡

下総流山、最後の陣営


 流山市に所用があり、出かけついでに以前から気になっていた「近藤勇がしいた最後の陣営跡」を見てきた。それは一軒の土蔵だけとなり、住宅街の中に埋もれるように建っていた。路地といっても良い、車一台が通れるだけの幅しかない道路に面していて、よく注意しないと通り過ぎてしまいそうなくらいかすかな形跡だった。
 流山は、近藤勇が自首した地である。近藤勇が流山を選んだ理由はよくわかっていないが、最終目的地である会津へ向かうため、なるべく官軍の目につかず、かつ分散した同志が集まりやすいという目的で陣を選んだといわれる。
 近藤勇については新撰組局長として将軍の列外警衛として上洛したことでよく知られている。今から173年前、いまの東京都調布市で生まれた。かつて生家を訪れたことがあったが、いまは井戸の跡が残っているだけであった。その日は帰りにそれほど離れていない龍源寺の墓所も参ってきた。近藤勇墓所は諸説あり、現在では4か所に墓がある。
 黒船が開国を迫り尊王攘夷から倒幕へ向かう世の中で、一途に徳川将軍家を守り続け35年の生涯を終えた人物だ。だが、副長の土方歳三に徹底抗戦を突き付けられてもあっさり自首してしまったのは、流山の地を戦禍に巻き込みたくないという理由が事実として伝えられているが、1868年、鳥羽伏見の戦いでは自分が参戦できなかったうえに多くの仲間を失った。その上勝沼で官軍にせん滅されて江戸に帰ったばかりですでに戦意が損なわれていたのかもしれない。

 近藤勇は官軍に自首して約3週間の後、東京都板橋区で斬首される。維新の推移を見ずに世を去った近藤局長が今の世を見たらなんて言うのだろうか。写真の「最後の陣営跡」は当時長岡屋という酒造家であった。今もお酒の問屋さんがあるがその関係は分からない。また、生家の子孫(末裔)は今も都内で代々農家を営んでいるそうだ。


 井の中の蛙大海を知らず。されど空の高さを知る。