大手新聞研究会 〜 まえがき

大新研テーマ写真


 今日から新しいタイトルがひとつ加わります。名称を「大手新聞研究会(略して大新研)」としました。この場合の「大手」は全国紙大手を指すもので、スポーツ紙、業界紙、地方紙などは含まないという意味です。毎週1〜2回のペースで、予定では10月いっぱい開講できたらいいかなと考えています。ブログ上のゼミ形式ですが登録料や受講料、テキスト代、学生証カードなどないかわりに、試験、レポート提出、修了証もござりません。ないと言えばあまり大上段に構えるつもりもない、なんとなく気楽に当たり前のことを当たり前に書いていきたい。


 テーマはちょっと大仰かなとも思うが≪新聞とは〜日本の大手新聞の功罪と未来≫で、無理やり一言に集約するとこんな表現になってしまった。テーマに沿って大手新聞の最終的な未来を探るためには、20世紀の情報を支えてきた大手の新聞社がいったい過去に何をしてきたかを仔細に訊ねる必要と、21世紀のネット社会に対峙した今、彼らは現在何をしているかを検証しなければならない。幸い膨大な資料があってボツボツと解き明かすには困らないし、ひとつひとつがとても興味深い。次回からは短い総論と長くなりそうな各論に入りたい。


 カテゴリー的にいえば幹線道路は二本ある、大雑把にいえば①マスメディアとしての権力、②マスメディアを維持する手段、になろうかと思う。前者、「The pen is mightier than the sword.」はどなたもどこかでご覧になった言葉だろう。「ペンは剣より強し(文は武に勝る)」という耳慣れたフレーズである。本来の語源はスペイン語の諺で「La pluma es mas poderosa que la espada」という説もあるがまぁそれは置いといて。一冊の本でさえ社会に大きな影響を与えることが儘ある。ましてや全国をカバーする大新聞は、毎日降る雨のように家庭のお茶の間に侵入してくるわけだからパワーも想像を絶する。だからマスメディアは<第六の権力>とも呼ばれ、時には大きな力を発揮する。Sword(剣)は<剣力(武力)>に過ぎないが、新聞はそれを勝る国レベルの強大な<権力(知らしめる力)>を持っていることになる。
 つまりそれほどの権力は注意しないと、使い方によってはその行為が社会や個人を傷つける『暴力』になるということに他ならない。「馬鹿とハサミは使いよう」というが実際そんな例は枚挙に暇はない。
 しかし、新聞は20世紀においてその有効的な力を存分に発揮し、社会の悪を放置することなくご意見番としての役割を果たしてきた。敗戦国日本において、急速に戦後の文化を築き上げる一助になったことも間違いないと思う。前世紀では一日一度の活字情報で何とか賄え目的は果たせたのだ。


 次に後者。一般的な近代社会では権力と利権はひとつ屋根の下に住む。どんな組織もそうであるように、組織そのものまたは利権を維持するために相当の努力を払わねばならない。大新聞社はどんな努力をしているのかを探ると、彼らのスタンスと本音が見えてくる。新聞社は「社会の公器」と自ら呼んできた。自己の利益より社会的利益を重視してきた・・・と自負しているらしい。しかし、激動するこの時代に至りその精神は変化してきたのではないか、「不易流行」のボタンの掛け違いはないか、いち私企業という部分が露骨に見え隠れしてはいまいか、この辺が注視すべき点だと考えている。


 このゼミは基本になる多くの資料と100%筆者の私見で書き進める。従って誤った記述が出てくるかもしれない。そんなところに出食わしたらお許しいただくか、あるいは正しい記述を教えていただけると非常に有益だと考えている。ただし、ものの見方は千差万別という大前提がある、同時にだから世の中バランスがとれるという側面もある。卑近な例で湯呑み茶碗ひとつ例にとって見ても、真横から見ると四角に、真上から見ている人は丸に見えるだろう。人にはそれぞれポジションがあるから同じものを見ても見解は分かれる、テーマによっては無限(または約65億通り)と言っていい。多くは -- なるほどそういう見方もあるのか -- と参考になり学習できるという点で全く異論はない。著者も個人的に加筆や修正を加えるつもりだが、その世界に従事されている方々や関心のある方のご意見もメールいただければ幸甚なことであり、多くの方がまるでウィキペディアWikipedia)に参加して何かを作り上げるようで、そうなればうれしい。