GOLFを誤解している人たち  前篇

wonderful golf


 私はゴルフがとても好きです。年齢の割に趣味は広いがその中でもゴルフは別格、これができなくなると人生寂しくなるだろうな。
 先日、私立埼玉平成高校のゴルフ部のコーチ(27才)が練習中に事故を起こした。ドライバーショットの飛び方を見せるためだったらしいが、60〜70メートル前に男子部員を立たせて右前方に球を打とうとしたが、打ちそこなって1人の額に命中、その部員は陥没骨折の重傷を負わされたという。コーチは「グリップが滑ってしまった」と言っているそうだ。私はこういうコーチに指導されなかったことは幸運である。あのね、グリップというのは滑るものですし、打球は自分の意思と一致することはほぼないものです。これを知らずにコーチとはいかがなものでしょうか。
 ここまでゴルフを誤解されるとひとこと言いたくなる。--------でも私見だからすべて正しいということではありません。お読みになる方にはあらかじめお断りします-------
 私は35年前、勤めていた某ゼネコンの横浜支店の先輩に教わってゴルフを始めた、そう、25歳の夏である。当時は建築の意匠設計が私の仕事だった。磯子や洋光台に巨大なマンションを次々に建設していた時代だ。「山本君、ゴルフ始めないか、健康にいいぞ。君は良い体してるし練習すればコンペにだって出られるし・・・」直属の先輩は指導力の優れたとても良い人だった。笑い話だが<コンペ?>と言われて私は当時年中どこかの媒体が開催していた「競技設計(コンペティション)」とこんがらがってチンプンカンプンなことを言ってしまった記憶がある。ゴルフのコンペなんてまるで知らなかったからだ。
 その詳しいやりとりは省略して、当時の建築業界はかなり業界的にノリノリで、他業界から見れば多少の給料にも恵まれ安いクラブを買うくらいは何とかなった。早速先輩に見たててもらい、横浜駅前のデパートでダグ・サンダース・モデルのセットを買い込んだ。ドライバーとスリー・ウッドは今はほとんど見ることのないヒッコリーだった。なぜダグ・サンダース・モデルだったかなんてまるでわからない。後で知ったことはサンダースは小さなスウィングで知られ、『テレホンボックス・スウィング』と称されるほど小さかったということ。彼なら公衆電話ボックスの中でもスイングができるさというメタファーである。私は柄が大きいので大振りさせず、コンパクトに振らせようという風に考えてくれたのかもしれない。ついでだが、ダグ・サンダースが言った『ゴルフはすぐには上達しないが、いつ始めても遅すぎることはない』という有名な名言がある。確かに50代から始めてシングルになったという知人を二人知っている。またまた余談だが、パターはピン・アンサー・カーステンの前後のものだったと記憶している。パターはその後ずいぶん買い漁って次々になくしてしまったが、今あれば相当なヴィンテージものだったろうと思うと残念だ。
 あの頃住んでいたのは横浜の綱島というところ、そう、昔(今もあるらしい)温泉があったところだ。綱島温泉は昔ながらの広い土間にちゃんとした下足係りの小父さんがいて、中は畳が敷いてある中広間や大広間があり、そこでお茶を飲んだり食事もしたりとお風呂だけではない時間を過ごせた。鉄分がやたら多い泉質でタオルは一度使うとチョコレートのような色になった。当時はもう古めかしい木造の旅館風で、私はその雰囲気が道後の坊ちゃんの湯に似ているところが好きだった。一般市民の楽しみは温泉で今も昔も変わらない。私も温泉大好き人間だ。江戸の昔は市中にある温泉に浸かっていたが少し足を延ばすと綱島には来れた。その後交通機関が発展して人々は熱海まで出かけるようになる。今や足が発展し過ぎて山の中の秘湯がすぐ有名になる時代になった。
 閑話休題。横道に逸れたのでゴルフの話題に戻す。
 綱島の私の住んでいたアパートのすぐ裏にゴルフ練習場があった、いわゆる鳥かごというやつ。あたかもおやんなさいよとでも言わんばかりに隣接していた。元住吉に住んでいた先輩は仕事の帰りに私の車----あの頃中古のトヨタ・スプリンターに乗っていたんだっけ------に同乗して練習場に向かった。私はすぐにハマった。こんな面白いスポーツがあったのかと。しかし、最初からボールをうまく打てたわけではない、いや、むしろシッチャカメッチャカだった。生来の負けず嫌いの自分に火がついたのかもしれない、私は毎日のように通った。仕事が忙しく深夜に帰っても、借りていた丘の上の駐車場の安全な場所を見つけては素振りをしてそれから風呂に入った。
 先輩が練習についてくれた日は終わってから一杯飲んだ。これも実に楽しい時間だった。どんな話だったかというと、ゴルフのことばかり、歴史、文化、マナーとルール、仕事の話はほとんど出なかったように思っているが、私はその方面のことはあまり聞いていなかったのかもしれない。心はすべてゴルフに向かっていた。練習場で空振りもほとんどなくなりかけ、たまには自分でも驚くショットが出るようになった。練習が終わって冷たいビールが二人の前に並び、注文した干物の焼ける匂いが空腹を誘った。私はいつコースに連れて行ってくれるのかと楽しみだったので、満を持して(いや、そのつもりで)ある日恐る恐る先輩に訊ねた。「先輩、そろそろコースに挑戦なんて…」、言いかけたら先輩にキッと睨まれドキッとした。そしてその答えが返ってきた。
 「あのな、ヤマちゃん(先輩はマジになると私をそう呼んだ)。ゴルフを甘く見てはいかんよ、ゴルフってそんな柔(やわ)なスポーツじゃないのよ。確かに上達していることは認めるけど、そうだな、最低一年はマナーと鳥かごだね」「えっ、い、一年ですか!」と絶句した。その後、本当に一年弱、練習場通いとビールを飲んでのゴルフセミナーが続いた。今になって私はつくづく先輩に感謝している。あの頃の教えがなかったならここまでゴルフを愛せなかったかもしれない。コースに行って自分はどのくらいのスコアが出せるのか試したくてウズウズしていた。テレビでゴルフ番組を見ると行きたくて堪らなかった。でもこっそり行こうとは思わなかった。メンバーコースを予約するというノウハウがなかったせいもあるだろう。しかしそれ以前にわたしは先輩の教えを守ろうと考えていた、そもそも先輩の人間性が相当高い方だと尊敬していたからだと思う。言われた通りにしようという意思は固かった。<次回へ>