夏の日の記憶

夏の日の記憶


 勉ちゃんはすべてにおいて特別な存在だった。
 家が比較的近く幼馴染で、背は高くとんでもないハンサムで、目が大きくクリクリ坊主だったが色が白く富士額がくっきりしていて眩しいくらいだった。ひとクラス50人以上で3組あった小中学校時代、同級生だった勉ちゃんは学校中の女の子の人気を独占していた。 
 小学校に入学したのは昭和28年だった。学校が終わると家に飛んで帰った。とにかく頭の中は遊ぶことで満杯だった。カバンを縁側にブン投げ暗くなって母親に叱られるまで友達と遊びに夢中だった。いつも決まって10数人が集まっては、季節や場所に応じたゲームを楽しんだ。一番多かったのは野球で、相撲や川の砂地で棒高跳びなどやったこともあった。
 戦争が終わって数年経過しても群馬県の田舎の小学校にはプールや体育館などはなかったし、中学に行くまでそれがどんなものかを想像したことはなかった。
 夏は毎日毎日川で泳いだ。川幅5メートルくらいで直角に曲がるポイントが深くて急流になり、悪ガキ達の絶好の遊び場だった。あの頃は清流でフナやハヤがたくさん泳いでいた。お腹がすくと近くの畑でトマトやキュウリを盗んで食べた。
 一方の土手に石垣があった。セメントで固められた大きな石は夏の陽に十分焼かれ、子供たちは唇が紫色になり震えるほど体が冷えるとそこに来て生気を取り戻した。みんな貧しい時代で今の子供のように海水パンツなど持っていなかった。でも、勉ちゃんだけは当時からそれらしきものを穿いていたように思う。

 高校に行き始めて幼馴染の道はそれぞれ分かれ会う機会は激減した。その後勉ちゃんと会ったのは町の国立病院だった。彼は先天性の心臓弁膜症と聞かされた。お腹がずいぶん膨れていた。幼馴染の友を見舞ってもなんと言っていいのか分からず、ただ暗く重い気持ちになって家に帰ったことを思い出す。
 高校を卒業してから勉ちゃんが高崎経済大学に進んだという噂を聞いた。そして二年くらいたった夏の終わり、同級生から勉ちゃんが亡くなったという知らせを受けた。年寄りが亡くなるのは何度か見てきたが、まだ若い友達が死ぬなんて概念は持ち合わせてなかった。ショックは相当だったのに驚くより何が起きたのか、頭で整理して正確に把握するのに時間が掛かった。
 勉ちゃんの家で葬儀は行われた。たくさんの弔問客のなかに小中学校時代の同級生も数人集まった。別室が用意されていて、われわれは広い畳の部屋の周りの障子に寄り添うようにコの字型に座って泣いた。勉ちゃんのお父さんは医者だった。軍医を経て前述の国立病院に勤務していた。少し小柄でいつも眼鏡の奥はにこやかな目元をしていたが、このときは押し黙っていて話をしなかった。医者の息子の急逝は察するに余りあった。
 お母さんは見るも哀れに落ち込んでいて、その姿を見ているのが辛かった。そして、なぜか集まった一人ひとりの名前を愛しげに呼んでいた。そしてみんな体に気をつけてねという意味のことを話し、託すような眼で私たちを見ていた。

 暑い夏が来ると必ず思い出す。きっと一生忘れないだろう、水を抜くため川の石垣に耳を押し当てたり跳ね出した材木から川に飛び込んだ仲間たちがいた。その中に無心で遊んでいた勉ちゃんの顔があったことを。