飛べない蝉

飛べない蝉


 西瓜や梨の実、浴衣、蚊取り線香、日傘など目で見て「夏」を感じるものは結構ある。しかし、耳から猛暑の季節を感じるとしたら代表は「蝉」だろうか。

 今日は少し離れた町に用事があって出かけた。台風の影響が残ってるのか風が強かった。日差しはもう完全に夏のそれで、燦燦と降り注ぐ太陽は男らしくさえ思えた。暑い日、風があって目の前に知らない街がある。もう歩く条件は揃っていた。車を駐車場に放り込み帽子を頭に乗せた私は喜々として車外に出た。線路際を歩くと電車が通り過ぎて行った。

 人も車もあまり通らない道の両側は閑静な住宅街だった。ところどころに商店がある、豆腐屋さんや小さなスナックが並んでいた。
 狭い歩道を歩いていると一匹の「蝉」が道路に落ちている。死んでしまったのかなと何気なく見つめているとすこし動いたように見えた。腰をかがめて凝視しているとゆっくりだが前に歩こうとしている。まだ生きている、長い幼虫時代を過ごし世に出た蝉が、まだ夏はこれからだというのに短い一生を終えて行くんだな。さっきのちょっとハイな気分は消えなんとなく寂しい気持ちになっていた。
 こんな熱いアスファルトの上では辛かろうと手でつまんで近くの木にしがみつかせてやった。それでも道路から剥がそうとした時、必死で足を地につけてバリバリと音さえしなかったが抵抗している小さな虫に、生きようとする力が指先から伝わり余計に悲しさが増した。

 灼熱の 地を這う蝉の 哀れさや

 今年はまだ蝉時雨というほどの合唱を聞いてない。蝉の声を聞いているとますます暑く感じてうるさいと思ったことも多々あった。それでも夏にあのやかましい声が聞かれなくなったら寂しいだろうな。彼らにとっては限られた生きる時間の命の声なんだから。
 あれだけ存在を誇示するようにあたかもたくさん集まった坊主の経のようにワンワンと声を上げ、ほんの数日経つと土の上に骸をさらしている蝉は、老若男女に関わらず己の人生や死についてたまには考えてみなはれと教えているのかもしれない。もっともメスは「唖蝉」と言われ鳴かない。ひたすら子孫を残す役に徹するメスと、祭りの神輿を担ぐ時のようにひたすら声を張り上げて自分がいることを認めさせようとするオスに、蝉の世界でも人間社会でも共通した<性を生きる>という何かがあるのかもしれない。